かつて有名なフランスの哲学者、ジャン=ポール・サルトルは、
名著「存在と無」の中で、「即自」と「対自」という概念を用いて、
人間の意識のあり方について書いていました。
ヘーゲルが先に提出しているようですが、
私は先にサルトルの方で読んだので、今回はそっちで取り上げます。
哲学ってとても難解ですが、ちゃんと読むと面白いんですよね。
「存在と無」も難しすぎて、完全に理解することができませんが、
なんとなく、「即自」と「対自」ということについて、
私もかなり影響を受けました。
「即自」とは、サルトルによれば、
「それがあるところのものであり、あらぬところのものではあらぬような存在」
もはやこれだけで難解なのですが、
サルトルは、事物(=意識にとって存在するもの)を「即自」と呼んでいます。
例えば、テーブルの上のペンシルやペットボトルなど、
実際に存在しているもののことですが、
これに対して、
人間は違うと言って「対自」を規定し、
人間の意識のあり方は、対自的であるとしました。
これはどういうことかというと、
人間は、意識が自分に相対していて、一体化していない
ということのようです。
と言われてもあまりよく分からないのですが、
例えば「私ってすごい」とか、反対に「自分はダメな奴だ」と思う時、
つまり自分に意識を向ける時、
意識は自分に相対していて、即自的な存在としては、
成り立っていないということだと理解しています。
こんな話が何の役に立つのかというところですが、
実際に、私が今まで体験したことの中では、
例えば、プレゼンなんかの機会で「緊張している」という時に、
対自的に自分に向き合って、
「今、緊張しているな」と思うようにすると、
なんだか緊張が解けていくような感じがしました。
なぜなのか、脳の構造や機能的なことは分かりませんが、
客観的に見る、あるいは一段上から見る
ということが、落ち着きを生むのでしょうか。
なので、緊張している時なんかは、
緊張しているということをわざと認めることで、
過度な緊張からは解放されるような気がしています。
こういったことも「対自」という言葉を知ってからだったので、
人生何が役に立つか分かりません。
難しい本もたまに読むと、何か驚きや発見があっていいかも知れませんよ。